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美意識の終焉

サグラダ引き エッセイ

不甲斐ない己の未熟さを知った。


「職人」という言葉に憧れて、何度か物作りに励もうかと思った事は、幾度となくあった。そのたびに自分のセンスの無さに嘆いたかのように沈黙して終わる。作品と呼ばれる事を、自分では与えられない。人の目に入り、認められて、価値を見い出してくれたなら、作品と呼んでくれる。

「きっとそうだったんだな」と思わせてくれたのは、数々の芸術作品でした。
技術的な革新だったり発明だったような事柄は、偏差値の低い私には理解できません。ただ私が知っている事は、子供の落書きにしか見えないひょんな画が、本人が死んでから認められ価値が高められていく事実。本人が死んだ前提の遺品として価値が出る芸術作品。そして何年たっても誰かが続きをやるのではないかという、思わせぶりなタイトル「未完の~」は、本人が無責任に死んだと言っている事に他ならない。
私の中ではサグラダ・ファミリアも同じ部類になるのですが、「デザインとは何か?」を考えさせてくれた建物でした。

若輩者は誰もが思うのです。あんな所、住みづらいよね?って。。。

芸術の真意とは?


作品を見ると、ふと私は思い返してしまうのです。それは作者の意図です。利便性を求めた建物ではなく、何かに訴えたい想いを表現したその姿には力があります。それは見れば誰もが感じる事です。芸術を表現する優位に立つ人の感性と共に、全ては進められてきたのです。そうすると、こういう答えもあるでしょう。

「本人がいない今は、誰も続きができない。」

本人の意思が尊重されていた行程の中で、本人が創造されていた事と、具体的に形になった現実が違った時、言葉で表す以上に、本当の意図を知るのが本人。本人による正しい修正をしたいが今はもういない。何が本当の正解かは、残された図面などからでは、本人以上には分かりえない。よく考えてみると、未完成のままお亡くなりになられ、本人以外に創作を続ける事ができないとする希少価値性によって、価値があるなんて場合も。完成してないから完成したらどうか分からない、価値があるんじゃないか?という憶測でしかない場合も。

「なんと無責任な事でしょう。壮大な大空が、欠けて見えるだけではありませんか。何でかな?」

本当は何をどうしたかったのか、本人の意思の確認も今はできない。老朽化すれば速やかに取り壊して欲しいという事を、念頭に置いての建造だった可能性もある。
だからこそ危険性をかえりみずに設計し、その雄大な姿が取り壊しによって、「危険な事は、どんな形でも失くしていこう」というメッセージ性を目的としている場合は、どうでしょうか。その可能性は捨てきれないです。なぜなら、未完のままお亡くなりになられていますからね。

「なんと無責任にお亡くなりに。正しい答えが出ない問題ではないか。「1+1=田」に匹敵する。解答欄に赤丸を入れる先生がいないという事だ。これは頷ける。いないのにある、奇跡的にそこに建造されているサグラダ・ファミリア、奇跡の未完の完成ですね。」

検討される分野は数あれど、後にも先にも未完にて完成としている建物、ただそれだけがいいと思います。見れば見るほどそうです。それが意識改革とか改善とか銘打って流行なんてしちゃって、目の前に建ってるとすれば、気持ち悪いです。一家に一本サグラダ・ファミリアなんて、どう見ても不気味です。若輩者は誰もが、そう思うのですよ?

言葉のあやとり、言い回し、レトリックやウィットが過ぎるので、この辺で。

完成されていない未完の作品を探す。


ゼロからのスタートではできないけど、完成したものには価値があって欲しい。ずるいような気がするけど、それしかできません。元より、誰もが火をつけるのにライターを使いますよね。摩擦による熱からの「火起こし」はしないでしょう。

昔から数えても途中、途中からいく事になんの抵抗もございません。 大きくも小さくも文明の中で生活しています。 気づいていないけど、途中からだった事には、人であれば「ありがとう」と、相手が見えなければ「ごめんなさい」と、自分の心に杭を刺すように、戒めて生きたい。

「元々は~」なんて話し出すあんな人や、こんな人も、昔を数えているのかしら?そこからの理解者よりも、ずるくても文明の中だから気づかないとして、本当に途中から始める人こそ、もっと前に進めるような気がするの。その人は新旧を併せ持っている事と同じじゃないかしら?少なくとも、私が貴方を見つめてる間にもゴールに近づくのは、どちらかしら?途中からの先で見つけるくらいのものだったら、もう一度、貴方を見てもいいの。それは私とのゴールだから。そこで新しい何かを見つけられていたら、絶対その人。

結局、何ならいいの?

レンジでチンするくらい。
描くのも塗るのも下手って。
売れる気がする。

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